【動画翻訳】Core-A Gaming:格闘ゲームのスキルギャップを減らした結果

毎度ハイクオリティなCore-A Gaming動画ですが、今回は「スキルギャップを埋める」作りについてです。

非常にナイーブな話題ではあるのですが、動画内では様々な角度から(某ゲームにひたすらダメ出しをしながら)指摘をしています。

結論部分は特に、欧米スタイルの競技コミュニティを前提としたものとなっているため注意が必要な部分はありますが、「なにがそのゲームをそのゲーム足らしめているのか」、というコアを追及する部分についてはいろんなゲームについて議論が持たれる部分だと思います。

そういった問題提起も含めて、有意義な動画になっています。

 

 

元記事:Analysis: The Consequences of Reducing the Skill Gap

(※ぜひとも動画を再生しながら読んでみてください。非常に凝った作りとなっています。

また、インタビューされているのは海外の(特にスト5の)有名プレイヤーや有名コメンテーター、そして開発者です。数も多いため、詳しい説明は割愛させてもらっております。興味がある方は是非検索してみてください。)

 

格闘ゲーム史上、最も重大な瞬間といえば梅原大吾による連続ブロッキング、通称“Moment #37”*1だ。そのシーンは3000万回以上も再生され、様々なドキュメンタリーで取り上げられ、そしてもちろん、それについて書かれた本*2だってある。そのブロッキングについてこれだけ大きく取り上げられる理由はたくさんあるが、根っこにあるのは、シンプルに非常にスキルが必要なものだからだ。『ストリートファイターⅢ 3rd Strike』でブロッキングをするには、10フレーム(あるいは1/6秒)しかない猶予のうちに前方向に一瞬レバーをいれないと成功しない。失敗すれば攻撃はヒットし、体力がほぼ1ドットしか残っていなかったウメハラは倒されていただろう。春麗のSA(超必殺技)は全15回のブロッキングを、特殊なパターンとリズムで行う必要がある。ウメハラはひとつひとつ全てを完璧にできないと生き残れなかった。いうなれば、よりシビアな判定をした『ギターヒーロー』で、見えない15の譜面を音楽無しでプレイするようなものだ。それにトーナメントのプレッシャーを加えると、おおよそ実行は不可能なものだったろう。

 

*1: ちょっとキレイに映ってる版
*2:“Evo Moment 37: One of the Most Famous Moments in Competitive Gaming History…”

 

しかし、もしこのようなやり方でブロッキングに成功していたら、“Moment #37”はこれほど象徴的になっていただろうか?(*中P中K同時押しをとにかく連打する図)

さほど感動的ではないが、こうすることで実際に『ストリートファイターV』においては春麗の超必殺技をブロッキングすることができる。言うまでもなく、『ストV』は寛大な入力猶予を持っている。実際に、メレンゲ*3のビートを刻みながら全てブロッキングすることが可能なのだ。

ではなぜこれほどまでに寛大なのか。私はカプコンのミーティングをこう想像せずにはいられない。

「簡単にできるように作れば、みんな次の『ウメハラ』になれますよ」

「みんな賛同してくれるはずだ!」

 

*3:メレンゲは音楽およびダンスの一種。

 

しかし、ゲームをより簡単にする傾向にはそういった理由がないわけではない。競技的なゲームは参入するのが難しい。何時間もかけてゲームを学んでも、それでもまだ何も知らないも同然だからだ。ゲーマーは今や年齢層も高く、現実生活での責任がある。1日仕事で働いて疲れて帰り、その日の最後にやりたいものが自分の娯楽のための「仕事」になるわけだ。しかし、競技的ゲーマーにしてみれば、その余分な仕事「こそ」が娯楽であり、道であるのだ。この構図がスキル差に大きな幅を作ることになる。

 

ボイスチャットの子供「ずるい!チートだ!」

 ジャスティン・ウォン「学習しなきゃ!」

 

そして、ゲームデザインによるが、より多くの時間をかけた者、あるいは古参のプレイヤーが多かれ少なかれリターンを得ることとなる。このことは、専門の競技的ファンを多く擁するカプコンのような会社を厳しい立場においてきた。大きな割合を占める潜在的な新規参入者をなだめるためにスキルギャップを埋めようとするのか、あるいは小さな割合ながら情熱的な競技的ファンのために古くからのスキルや努力に応えるのか、といった具合だ。それに加えて、ゲームをプレイしないであろう観衆を喜ばせねばならない。しかもスポンサーをハッピーにする方法で、だ。例えば、r/Kappa民はレインボー・ミカのデフォルトコスチュームを好むかもしれないが、ESPNはスポンサーを失いたくないためにそれは許容しない*4。そのようにたくさんの異なるグループを満足させようとすると、ゲームの潜在的な投資リターンにしか興味がない人々か、あなたを苛つかせる、体力リードしてからタイムアップを狙う人々にゲームを委ねることになってしまう。ゲームの魅力を広めるのに目新しいことは何もないが、今や非常にリスペクトされたプロプレイヤーが出来の悪いゲームの開発者に文字通り呼びかける事態にもなっている。

 

ボンちゃんの通訳者「バイソンや、バイソンのコンセプトを作ったやつは頭がイカれてる。彼はそう言っている」

「ボンちゃんは、一応カプコンの思惑は一通り理解できるものの、でも彼らのやり方は受け入れられない…、と言っている」

「幼稚園児がパッチを作ったんじゃないか、とさえ言っている」

 

*4:EVO2016の決勝ラウンドでは、スポーツ専門チャンネルのESPNで放送がなされたが、その際レインボー・ミカのデフォルト衣装の露出度がスポンサーの問題となり、アレンジコスチュームを使用するように急遽申し入れがあった。

 

一体何が起こっているのだろう。このトピックの根っこを押さえるため、まずは「パーティーゲーム」から見ていこう。ビアポン*5のような「ドリンク・ゲーム」は数分で説明できるだろうし、ゲームをやるのが初めてでも勝つことは珍しくない。このようなパーティーゲームは、「ルールを覚えるのが簡単」、「練習が不要」、「得られるリターンが少ない」という特徴がある。言い換えれば、努力が不要である。このことが、競技的なゲームがパーティーゲームみたいになってしまうことが、最悪の事態のひとつである理由だ。

 

Ken「スマブラfor WiiUを配信でプレイするのは…『楽しみ』たいときだね」

(Mc Rib、Mike Ross、失笑)

 

*5:ビアポンとは、ビールやその他の飲料を入れたコップをお互いの手元にボーリングのように並べ、遠くからピンポンボールを投げてコップに入れるゲーム。入れられた側が入ったコップの中身を飲んだり、あるいは取り決めに応じて賭け金を払ったりする。

 

もちろん、『スマブラDX』プレイヤーたちも「パーティーゲーム」だと言われたことがあるだろう。それは『スマブラ』が当初はパーティーゲームとして桜井政博によって作られたからだ。しかし、コミュニティは、アイテムなし、そして一部のステージを禁止するなど「結果の不確実性」を取り除くルールをつくることで競技的なゲームへと昇華させた。「結果の不確実性」とは、『マジック・ザ・ギャザリング』の製作者であるリチャード・ガーフィールド博士によれば、「運」である。ランダムNPCやランダムアイテムによって皆が倒され続けた場合、誰がより強いプレイヤーなのかわからなくなる。しかし、「運」は人々の自尊心を守るという点で、パーティーゲームにとっては非常に素晴らしいものだ。プレイヤーたちは勝利を腕のおかげだと思うし、負けはタイミングの悪さのせいにできる。自分が下手くそである現実を受け入れなくて良いし、みんなハッピーだ。それに飽きるまで、あるいは賭け金を引き上げてもっとゲームを面白くするまでは、だ。

 

(いぶきとまことのやり取り)

いぶき「(ゲームに勝って)見たか!」

まこと「いやー、酔っ払ってるからな」

いぶき「いいや、あなたが下手くそだからよ。

    それに、あなた男の子みたいな見た目ね」

まこと(拳を打ち下ろす)

 

もし金やプライド、あるいは単にビールであっても、賭かっているものがあると運を減らす方向にルールは変えられたり追加されたりする。唐突に、ボールは決められたサイズに統一され、サイコロのようなランダム要素は排除される。

(*ボールをつついているのはアメリカンフットボールのNFLで「空気圧疑惑」が起こったペイトリオッツのQB、トム・ブレイディ。)

 

チェスはスキルに則ったゲームとして究極的な例で使われるが、かつて最初期の形態である「チャトラジ」としてプレイされていた頃、サイコロを用いて遊ばれていた。古い『ストリートファイター』においても、スタン値は一定の幅の中でランダムに決定されていたので、時には数発の攻撃でピヨることもあった。後のゲームになると、攻撃ごとのスタン値は固定され、運要素は減らされることとなった。競技的なプレイヤーは一般的にこのような運要素を減らす変化を受け入れるだろう。しかし、熟達した競技的なシリーズに運要素を取り入れたとしたらどうなるだろうか?

 

リチャード・ガーフィールド「既存のゲームに運を取り入れるのは非常に難しい。なぜなら、既存の人々が、既存の評価される方法を好むからだ。いいプレイヤーはたくさんの称賛を受けるが、運要素が入るとそれが減ってしまうのだ。」

 

スキルギャップを小さくすると、上手いプレイヤーはより頻繁に負けるようになる。そして、『ストリートファイターV』のようなゲームはこの考えを取り入れて作られている。このことは陰謀論ではない。カプコンはそれを秘密にしていないからだ。

 

Efren Salinas「Lupe Fiascoが勝って、梅原大吾を倒した、というような場面が格闘ゲームコミュニティの外にいる、より多く観客にどのような意味を持つのか考えを教えてもらえますか?」

Combofiend「それはストリートファイターVのハードルの低さによるものだと考えています。つまり、誰であっても挑戦さえすればチャンピオンになれるということを示したのです」

 

では、そうするために彼らは何をしたのか。ストリートファイターVというソーセージはどのようにしてつくられたのか。

 

F Champ「このゲームをつくるためのアイディアは、こんなクソみたいなものだったんだろう…。『我々はesportsとして宣伝していくためにストリートファイターを作らねばならない。そうなると10~20年プレイしてきたプレイヤーと、さっきコントローラーに触ったばかりのプレイヤーとの差を埋めるように作らなきゃ』って」

 

これらの変更は多くの番狂わせや、予想できない試合を生み出してきた。それらは観客や新規参入者にとってはエキサイティングだろうが、多くの実力あるプロプレイヤーに心臓発作に近いダメージを与えてきた。

 

Jiyuna「ふ~どを最終ラウンドまで追い詰めましたよ…」

Xian「とても印象的です。間違いなく、心臓発作を起こすことでしょう」

 

しかし、新規参入者や観客を意識してデザインされたゲームには代償が生まれる。ストリートファイターVのシンプルかつ猶予の大きなコンボシステムにより、中級のプレイヤーでも、少し、あるいはほぼゼロの努力で大体のコンボができるようになった。例えそれが即死級のものだとしても、だ。これはコンボの多様性と、プレイヤー自身を表現する能力を低めてしまった。

 

Gamerbee「私がとても特別なプレイや、あるいは自分のキャラを代表的するプレイに挑戦しようとしても、このゲーム(スト5)ではそういったプレイはできない」

「なぜなら、コンボはみんなできるものしかないからだ」

 

寂しいことに、Sakoのようなコンボマスターの技術は矮小化してしまった。誰もが彼と同じコンボをできるからだ。さらに最大ダメージのコンボが簡単化してしまった上に、悪びれずに防御の選択肢もひどいものになっているので、事態はさらに悪化している。

 

FChamp「何か起こるのを防ごうとしても、防御行動が非常に限られているので…」

 

Snake Eyes「私は何かしらの防御の選択肢が必要だと間違いなく感じている」

 

ジャスティン・ウォン「間違いなくシーズン1の方が好きだ。なぜなら当時はもう少し防御の選択肢が多かったからだ。シーズン2は明らかによりアグレッシブなゲームになっている。そしてそうすることで観客をより喜ばせるような作りにしているのだろう」

 

結論としては不安定性だ。

 

インタビュアー「毎日、このような大逆転を目にしますが…」

Floe「逆転はもはや意味がない。もう全く感動的じゃない。逆転は日常茶飯事なんだ」

 

確かにこのような防御的なプレイは観客にとってはつまらないだろうが(*『Injustice2』の飛び道具キャラによるシューティング合戦)、しかし一方で『ギルティギアXrd』は防御的にプレイしすぎるとゲージがなくなってしまうゲームだが、豊富な防御行動が用意されており、「フォルトレスディフェンス」のように良いリソース管理に報いるものや、「直前ガード」のようにタイミングの良さに報いるものなどがある。

 

このように不安定なゲーム性に加え、劇的なバランス調整がプロプレイヤーを「どのキャラがカプコンに愛されてるか?」という予想ゲームに陥れてしまう。

 

Brian_F「カプコンはバランスのいいゲームにする気はない。僕はそう思う。単に画面に映るキャラをシャッフルし、エキサイティングに感じさせたいだけじゃないかと思っている」

 

しかし、それら全てに加えてスト5には多大な入力ラグがあり、そのトピックについては既に動画化しているが、カプコンは当初から1.5フレームほど軽減したものの、それでもまだ『Skullgirls』のようなインディータイトルの2倍の入力ラグがある。実際、『Skullgirls』の開発者であるMike Zは(*『Skullgirls』の「永久試作版」に)スト5と同等の入力ラグを加えてスト5を再現するモードを加えた。起動オプションで「-ascendhigher」(*スト5のキャッチフレーズ、“Rise up”のパロディだと思われる)とコマンドを入力すればプレイすることができる。この冗談は頭がおかしいが、表示されるメッセージはリアルだ。入力ラグによって自キャラのコントロールはうまくいかなくなるし、反応よりも予想が不可欠になり、「結果の不確実性」をより引き起こすこととなる。

 

Alex Myers「ラグを考慮してプレイしなければならない」

「もし相手に対して受け身になりすぎ、例えば反応しようとしたり、差し返しを多く狙いすぎたりすると…、事故って負けてしまう」

 

でもあなたはこう思うかもしれない。「もしスト5はそんなに運ゲーなら、なぜコンスタントに活躍しているプレイヤーがいるの?」と。それはプロのポーカーの世界でも見られる継続性と同じ理由によるだろう。Daniel Negreanuは文字通り「ギャンブル」なゲームをプレイしながら、6つのワールドシリーズに勝ち、3,000万ドル以上も賞金を稼いだ。リチャード・ガーフィールド博士は、運とスキルは「相互排他的ではない」と指摘している。つまり、ゲームによって「高い運に高いスキル」(*ポーカー)、「低い運に高いスキル」(*囲碁)、「高い運に低いスキル」(*ビンゴゲーム)、「低い運に低いスキル」(*○☓ゲーム)のように必要とされる要素が異なるというのだ。ストリートファイターが高いレベルで競技的であって欲しいと思う人は「低い運に高いスキル」の方のゲームに行って欲しいと考え、一方で大逆転と派手な展開が欲しいと思う人は「高い運に低いスキル」の方のゲームに行って欲しいと考える。もしひとつの方向へ邁進しすぎる場合、同じシリーズのゲームとは感じられなくなるだろう。

 

FChamp「このスト5は完全にストリートファイターではないんだ。なんというか…ラグのあるアルカプみたいなものだ」

 

しかし、シリーズのファンたちの間では何が真に「ストリートファイターなのか」ということについて議論が起きることだろう。人々は異なる嗜好を持つからだ。それは地上戦だろうか?玉打ちだろうか?コンボテクだろうか?仕込みテクだろうか?読み合いだろうか?これには確実な答えなどない。シリーズの方向性を厳密に定義する、公的な「ストリートファイター憲章」のようなものはないからだ。

これが“Moment 37”が人々に好まれている、という事実が格闘ゲームコミュニティにとって非常に重要な理由だ。このようなシーンは、我々にとってのシリーズの有意義なあり方を示す「暗黙の約束事」を伝える役割を果たす。この映像における興奮度は単にこれが大逆転だったからだけではない。逆転は不可能だろうと思われていたからだ。それを簡単にして、みんなが次の「ウメハラ」になれるようにすることは、ストリートファイターの何が面白いのか根本を見誤っており、プレイヤーたちを無念な気持ちにさせてしまう。

 

ガイ「む、無念ーーー!」

 

もはや、これは「ストリートファイター」ではない。同様のことは『メタルギア』が皮肉にもサバイバルホラーゲームに変わってしまったり、『Call of Duty』がSFになってしまったときにも見られただろう。そして、これらのゲームはもし別のシリーズとして作られていたのなら素晴らしいゲームとなっていただろう。このチャンネルの登録者はご存知だろうが、私は『Rising Thunder』が好きだが、それでも決して1ボタン昇竜拳をストリートファイターに求めようとは思わない。

競技ゲームは長年のサポートによって、もはや「人生を共にするゲーム」になりつつある。我々は人生の多くを、プレイ、観戦、そしてトーナメントへ遠征するのに費やしてきた。それ故に開発者からのコミュニケーションが昔以上に重要なのだ。

 

Phenom「僕はカプコンが本当に何か変えようとしているとは思わない。」

「カプコンは自分たちがゲームにとって良いと考えるものを行っている。『カプコン』がいいと感じることを、だ。スト5は明らかに彼らのためのゲームだ」

「もしあなたが競技プレイヤーだとしたら、単に彼らがやることを受け入れるしかないと思うよ、多分」

 

このことで思わずにはいられないのは、ゲーム会社はプレイヤーと「共に」協力してコミュニティに合致するようなゲームにできないのだろうかということだ。特にコミュニティに長く受け入れられているゲームに関してそうだ。そして、それは競技プレイヤーが好むであろうと考えられるアイディアをちょっと出す、という意味ではない。私が言っているのは、最もリソースをつぎ込んでいるプレイヤーが望むことに耳を傾け、彼らが熱中し、周囲に勧めるようなゲームをつくるということだ(*背景に「どうか入力ラグを減らしてください」の文字)。このことはナイーブな事物に見えるし、金融危機へ向かう道のりのようなものかもしれないが、しかし、格闘ゲームジャンルの復活に関与してきた「ある開発者」はそうは思っていない。

 

Seth Killian「個人的な視点で言えば、エキサイティングな発展というものは技術から来るわけではない。それは我々がゲームそのものをどう考えるか、思考のシフトによってもたらされるのだ」

「それはプレイヤーが持ち込む熱意を新たな視点で見ることであったり、開発者としての興味をできる限りプレイヤーと近づける努力であったり、そして根本的に、双方が共存していることを理解することだ」

 

Seth Killianの示すモデルはこうだ。

2017061601

(赤円が「プレイヤーの熱意」、紫の円が「競技」、緑円が「プレイヤーの視点を持った開発者」である。「プレイヤーの熱意」と「競技」は相互関係にあり、「プレイヤーの熱意」は「開発者」にゲームを通した利益をもたらす。そして「開発者」は「競技」をサポートする、というモデルになっている。)

 

「プレイヤー視点を持った開発者」(*緑の円)、これは何を意味するのだろう。

 

Seth「私の視点からすれば、esportsの歴史は、常に変わり続ける風景の重力から逃れようと挑戦してきたプレイヤーたちの歴史なのだ。自分たちのスキルに報いるベストな調和点を探したり、あるいは安定した競技シーンをもたらすための予算を探したりして、彼らは競技シーンが安定軌道に達するまで、挑戦してきたのだ。」

 

私はその響きが好きなのだが、しかし「競技シーンの安定軌道」は観客が望むものなのだろうか?

 

インタビュアー「観客は逆転が観たいのでしょうか?それとも誰が1番なのか観たいと思っているのでしょうか?」

Floe「観客はそんなこと気にしないよ。なぜなら実は…」

インタビュアー「彼らは誰が1番なのか気にしないってことですか?」

Floe「そうだ!なぜなら彼らはとても口うるさいんだ。ある日、ウメハラが全員倒して優勝したとするだろ?彼らは『すげえ!ウメハラが1番だ!』って言うんだ。そして次の週、ウメハラが負けて、9位かそこらだったとしよう。そうすると『ウメハラはひどい。ウメハラは終わった』って言うんだ。瞬時に『ウメハラは終わった』って言うんだ」

「もはや人々は、誰が1番かなんて気にしちゃいない。ただくだらないことを言い合いたいだけなんだよ」

 

確かにFloeは正しいかもしれない。そして誰が1番のプレイヤーかなんて気にしていないかもしれない。しかし、観客はショーを気にしている。もしそれが本当なら、モデルはこのようになるはずだ。

2017061602

(赤円が「スポンサーの興味」、紫の円が「ショー」、緑円は「観客目線の開発者」となっている。そして、「スポンサーの興味」により、開発者にゲーム内外の利益がもたらされるモデルに置き換わっている。)

 

「プレイヤー目線へのフォーカス」がなくなり、「競技」もなくなり、「プレイヤーの熱意」は「スポンサーの興味」に置き換わってしまっていることに気づいて欲しい。なぜかって?プレイヤーたちが見せ物にされる中で、熱意を保ちつづけるのは難しいと思うからだ。もちろん、ただの推測だけどね。

私は、どのモデルが最も金銭的成功につながっているか知っているふりをするつもりはない。でも果たして、最も熱心に打ち込んでいるプレイヤーたちを楽しませるゲームをつくることは金銭的成功に値しないことなのだろうか?(後略)

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